エルンスト・ルビッチ(左)とポール・ダヴィッドソン

この映画は、ドイツ映画界創始者のポール・ダヴィッドソンが、度重なる失敗の後に再起をかけて立ち上げたダヴィッドソン・フィルム-AGの製作です。ポール・ダヴィッドソン(1867 - 1927)は、1906年にフランクフルトで最初の映画館を営業、それから事業を拡大し一大映画館チェーンを経営します。1913年には北ドイツからベルギーまで一帯に50以上の映画館を所有していました。1909年に彼は会社を設立、PAGU(Projektions-AG “Union”)という、ドイツではじめての映画関係の株式会社でした。すぐに映画製作にも乗り出して、最初にマックス・ラインハルトに出資したのは彼でした。しかし、第一次世界大戦の勃発とともに経営が行き詰まり、彼は自分の映画館チェーンをノルディスクに売却せざるをえなくなります。それがきっかけとなって、映画製作のほうにより集中することになり、エルンスト・ルビッチの1910~20年代の作品を次々と発表します。1917年に国策会社として発足したウーファに、彼の製作会社(PAGU)とノルディスクに売却した映画館チェーンが吸収され、彼はそこで製作主担当として雇われますが、戦後、ルビッチやジョー・マイとともにウーファを飛び出してEFA(Europaischen Film-Allianz)を結成します。ちなみにウーファで彼の穴を埋めたのはエーリッヒ・ポマーでした。EFAはやがて閉鎖、夢よもう一度と立ち上げたのがこのダヴィッドソン・フィルム-AGでした。この会社は、ウーファ傘下で「独立製作体制」をとっていることになっていたようです。しかし、この事業も頓挫、1927年にダヴィッドソンは精神病院に収容され、数ヵ月後に自殺してしまいます。

この映画の脚本を担当したロルフ・E・ヴァンロー(1899 - ?)は、1920年代にシナリオライターとして成功し、「ヨーロピアン・シナリオ・カンパニー」という会社まで設立しました。最も有名な作品は「アスファルト(Asphalt, 1929)」ですが、それよりも映画史には「マレーネ・ディートリッヒの説得に失敗した男」として名を残しているかもしれません。1936年に、ゲッベルス/ヒトラーの要請で、ヴァンローは「鎧なき騎士(Knight without Armor, 1937)」をロンドンで撮影中のマレーネ・ディートリッヒを訪れ、ドイツで製作予定の映画「夜のタンゴ(Tango Notturno, 1937)」の主演を要請し、高額の報酬を提示します。ディートリッヒはこれをあっさり断ります。結局、この役はポーラ・ネグリが演りました。ちなみにディック・ミネや菅原洋一の歌で有名な「夜のタンゴ」はこの映画の主題歌です。その後数本の映画の脚本を残したものの、ヴァンローは姿を消してしまいます。

この映画もプリントの存在は確認されていません。